歴史と日常に学ぶ 脅しの対応法(第4回)

脅しへの対応戦略3 達観編
 脅しへの対応としてよく紹介されるのがリンガーのアイスボール理論である。これは簡単に紹介すると何百億年後には太陽もやがては燃え尽き、地球も一個の氷の玉、すなわちアイスボールになってしまうのだという理論である。そのため今目先で起こっていることは所詮は非常に小さな事にすぎないという考え方である。これは脅されて動揺しているみずからの心を落ち着かせる一定の効果のある発想といえる。こだわりを捨て達観するというのも時には必要な事である。
 これに似た発想で中国の老荘思想がある。老子では無為自然を説いている。あるがままに生き、作為的になにかを弄したりしない。こだわりを捨てあるがままの流れに身を任せる生き方である。老子の一節に次のような言葉がある。「疾風はものすごい音を立てるが、朝吹き出した風が1日中吹き荒れることはない。にわか雨や夕立もものすごい音を立てて降りしきるがやがては止むのである。これをつかさどっているのが天地である。天地でさえ大音を発することは短い時間しかできない。まして微力の人間においては、人を驚かすようなことを再三繰り返すことはできない」老子的に考えれば、目の前の脅しもやがては自然に消えていくものであるということになる。時には相手の脅しや怒りを無心で受け止め、自然と沈静化されるのを待つことも重要な対応策といえる。
今日の企業の現場にもこれを示す事例がある。某大手IT企業のSE(システムエンジニア)に対する調査で、顧客との交渉においてクレーム処理でトラブルとなるケースはSEの顧客に対する下記のような対応であった。①顧客の非を指摘し、自分の正当性を主張するあまり火に油を注いでしまう。②言い訳に終始する。他人や状況のせいにして逃げようとする。③だまってしまい何も言い返すことができない。④一人でなんとかしようと抱え込んでしまう。これらはいずれも自らの立場に対するこだわりから発生した行動パターンであると言える。特に①は優秀なSEであればあるほど陥りやすい行動傾向であるという。ここで老子的発想を持ち、まずは無心で顧客の話を受け止め、顧客の感情を汲み、ひたすら傾聴に撤していけば、どうであろうか。おそらく徐々に顧客も

感情的・主観的状況から、理性的・客観的状況へ移行していく事が考えられるのではないだろうか。
史記では老子とされる人物老聃に若き日の孔子が教えを受けにいった場面が記載されている。老聃は孔子を見送る際次のような言葉を投げかけている。「聡明で洞察力に富んでいながら死の危険にさらされるものがいるが、それは他人を批判しすぎるからである。雄弁かつ博識でありながら、その身を危うくする人がいるがそれは他人の悪をあばくからである。社会の関係の中で生きていく者は自己主張を控えねばならない」時に己の聡明さや正当性が仇となり己の身を危うくすることはよくある話である。あえて暗愚を装い、己のこだわりを捨て、世間の風に対応するのも、己を生かす道なのかもしれない。
 老子的な生き方をした歴史上の人物としては、徳川慶喜が挙げられる。徳川慶喜は1866年12月に徳川幕府の第15代将軍に就いたいわゆる「最後の将軍」である。慶喜が将軍に就任した時は、大きな歴史的転換を迎えた激動の時代であった。まさにその歴史的転換期のキーマンがこの徳川慶喜である。この時代、前述した坂本龍馬が薩長同盟を実現させるとともに、幕府と薩長の全面戦争を避けるため後藤象二郎を中心に土佐藩を動かし、大政奉還構想を進めていた。またそれと同時に大政奉還を実現するために必戦の覚悟もしていた。当時「此上は必戦の覚悟を定め、薩長の勢力を利用して国是を定むること、土藩今日の任務なり」と土佐藩に対して述べ、また「此度の事若し成らずんば、仏教・耶蘇教を利用して人心を煽動し、飽くまでも幕府を倒さん」「一朝時起らば、長崎運上所に蔵せる十万両を奪ひて軍資となすべし」と言い、オランダ商人からライフル銃千三百挺を購入するなど事が成されなかった時の事も考え動いていた。徳川慶喜は将軍に即位した翌年1867年の10月この構想を受け入れ、二条城で大政奉還を表明したのである。この慶喜の決断により、武力衝突なしに政権が委譲されたのである。徳川慶喜が自らの手で徳川政権を終焉させた瞬間であった。この後二条城を退出した後藤象二郎が大政奉還成立の旨を書にて知らせた際、坂本龍馬は傍にいた中島作太郎を顧みて次のように述べたという。「将軍家今日の御心中さこそと察し奉る、よくも断じ給へるものかな、よくも断じ給へる

ものかな、余は誓って此公の為に一命を捨てん」日本の将来を考え、自分の立場を超越し行動した徳川慶喜の姿勢に感銘を受け龍馬はこう述べたのである。徳川慶喜は明治政府となってからは、自らは歴史の表舞台に出る事もなく静岡でひっそりと過ごしている。狩猟や、弓術、馬術、油絵、写真など趣味を楽しみながら穏やかな生活を送り77歳という天寿を全うしこの世を去っている。木戸孝允から家康の再来と恐れられる程の才能に恵まれた大器であっても、明治維新後あえて流れに逆らうことなく、老子的な生き方をした背景には、元将軍である自らの行動の日本全体に対する影響の大きさを考えたものと思われる。世間から弱腰となじられ、側近であった老中板倉勝静に慶喜と行動を共にしたことを後悔しているといわれても、己のあり方を貫いた慶喜には私事より日本全体を考える達観した思想が根底にあったのではないかと考えられる。日本資本主義の祖であり、第一国立銀行設立や、500に及ぶ株式会社の設立に携わった渋沢栄一は著書の中で徳川慶喜について次のように述べている。「我が国民に貴ぶ所のものは、国家に対する犠牲的観念である。忠君愛国も其真髄は大いなる犠牲的観念の結晶にある。大いなる犠牲的観念は、私を棄てて公に徇ふにあるが故に、其功労の世間に表れる事を求めず、其苦心に対する報酬を望まぬのみならず、他より毀損せられても、他より侮辱せられても、亳も其心を動かす事なく、一意国家の為に身命を擲つて顧みざる偉大なる精神が即ち是である。公が国難を一身に引受けられ終始一貫して其生涯を終わられた偉大なる精神は実に万世の儀表であり、又大なる犠牲的観念の権化であると思ふ。」徳川慶喜は危機に瀕し、達観し、己の立場を超え全体を鳥瞰し、行動した人物であったといえる。達観した対応が後世に大きな道を創っていくことになるのである。
  

まとめ

脅しに対する対応法を大きく3つの観点から述べた。結論を言えば、実際の現場で起こっている脅しに対応するために必要な事はその時その時の正確な状況判断と、最適解となる対応法を自ら見いだすことにある。またそれと共に「脅しに立ち向かう己のあり方を決め、肚をくくること」にあるといえる。自分を見失ってしまっては脅しに対応することはとてもできない。自分自身の信条、理念に従い、自らの姿勢を固める、覚悟を決める事がもっとも大切なことである。本稿では考え方、対応策をいくつかの事例をもとに提示した。事例を見てわかるように交渉は生き物であり、脅しの対応も十人十色である。脅しの対応法について成功確率を上げることは出来ても、これで完全というものはどこにも存在しないということである。つまり過去の事例は参考にはなるが、最終的には自らの判断でその時その時どう対応するかを決断するしかないということである。その時、その場所、その状況でどうすればよいのかは、当事者であるあなた自身が考え、最適解の行動を選択していくしかないのである。茶人千利休は「規矩 作法 守り尽くして 破るとも 離るるとても 本を忘るるな」と説いている。脅しへの対応、交渉においても大切な事は、まず基本的な交渉理論をしっかりと学ぶこと、そしてその次に経験をしっかりと重ね、基本型を破って自らのやり方を確立すること、また最終的に基本型とは全く離れた形を創造する域に達することであるといえる。しかしそれと同時に、どれだけ進化していったとしても本来の自らの信条やあり方は決して見失わないことが肝要である。