黒船の交渉学 ~ハリスの見た「ボトム・アップ社会」前編~

ハリスの見た「ボトム・アップ社会」

米国のペリー提督と日本全権委員との間に締結された和親条約(神奈川条約)の第11条に次のように言う。
「この条約の調印の日から18ヵ月の後に、合衆国政府は下田に居住する領事または代理官を任命することができる」
ハリスが安政3年(1856年)7月、軍艦サン・ジャシント号に乗って下田にやってきたのは、和親条約のこの11条によってである。
日本側は、これを聞いてすっかり仰天してしまった。というのは、確かに第11条は日本への米国官吏の駐在規定に触れているのだが、その条件文として「両国政府においてよんどころない事があった場合模様により」とあるからである。
しかし、これはあきらかに条約の読み誤りである。英文で書かれた同じ文章は“・・・provided that either of the two governments deem such arrangement necessary・・・”つまり「両国政府のいずれか一方が必要と認めた場合」となっていて、まるで日本側の解釈と違うのである。
この日米和親条約の第11条などは、まさに日本側の完全な「誤解」であったといってよいだろう。その誤解によって、ハリスの出現に大きく取り乱してしまい、その精神的動揺が後あとまで尾を引くのである。
交渉においては、平常心を失った方が負けである。
さて、タウンゼント・ハリス「Townsend Harris」は、主として太平洋とインド洋とを股にかけて貿易を営む実業家であった。敬虔なプロテスタントであり、開拓者精神の横溢したビジネスマンであった。それだけに、軍人ペリーとはひと味違う、いかにもタフなアメリカビジネスマン的な交渉をみせるのである。ハリスは、貨物船の船主として太平洋やインド洋をかけめぐった後、中国寧波の領事となり、今度は日本行きを希望した行動的な男である。
ペリーの日本遠征の時も、それに参加を希望したがペリーの許しを得られなかった。そこでこの神奈川条約による外交代表になるべく就職運動を始めたのである。
彼は当時の国務長官ウィリアム・マーシーや大統領フランクリン・ピアスと親交のあるウェトモア将軍にコネがあった。また友人の紹介でペリー提督もハリスに協力的であった。このコネをハリスは最大限に利用したのである。
交渉にコネが重要なのは、何も日本だけに限らない。ハリスも巧みにそれを利用している。
このコネも力のある人からなる「人のネットワーク」でないと、あまり効果がない。有力な人のネットワークは、その人の財産である。
「権力距離縮小理論」
しかし、この人脈の形成についてついでに言えば「権力距離縮小理論」というのがあることを、ここで触れておこう。ヨーロッパの組織論学者のホフスティドやミュルダール等の提唱している理論である。
この理論は、下方権力距離機構と上方権力距離機構との二つからなっている。
下方権力距離機構というのは、有力者(力のある者)は自分以下の者との権力を、さらに増大させるか、あるいは少なくとも現状維持しようという性向を持っているというのである。しかも、有力者と弱者との距離が大きければ大きいほど、この引き離そうという性向は強く働くとも言っている。権力差があれば、有力者はその弱者に鼻もひっかけないという。
ああ、うちの部長などはそういう所がある、などと心に思うところのある読者の方があるかもしれない。しかし、これは誰にでもある一般的性向なのである。新宿の地下道に寝ている人に、人は近づこうともしないというのも、それである。
極端に言うと、力のある人間、エリート達は、上ばかりを見て下を引上げてやろうとしない傾向がある。
後者の上方権力距離機構というのは、弱者は自分と有力者との権力距離を縮小しようとする性向を持つということである。そして、弱者と有力者の距離が大きければ大きいほど、この性向は減少していくというのである。締めムードが出てくるのであろう。
 コネは有力者と弱者の間に入り、権力距離を縮小して弱者に交渉力を与える働きがある。しかし、コネ自身にも権力距離縮小理論が働く。したがって、コネは下の者をそれによって引き上げようとしない性向も働く両刃の剣である。
この点を考慮して、コネを利用する必要があるだろう。話をもとにもどそう。
1855年8月4日付の大統領令で、ハリスは駐日総領事に任命された。と同時に、ペリーの締結した和親条約を改定して、日本と新しい通商条約を結ぶ全権委員の任務も与えられた。
ハリスは日本への出発に際して、書記官兼通訳として、当時23歳の元オランダ人ヘンリー・ヒュースケンを雇っている。
ハリスが、軍艦サン・ジャシント号で下田に入港した時、彼は51歳であった。
ハリスの来朝は幕府にとって寝耳に水であった。
1856年8月21日の彼の日記には「奉行は明日の午後1時に私の訪問をうけるつもりでいる」ことが伝えられている。しかし、次の日の22日には奉行は病気になって面会できないことを申し入れている。引き延ばし作戦である。
日本側は攘夷論との関係もあって、居住のための上陸はまかりならぬと一応答えてはみた。が、ハリス側に、上陸を拒めばこのまま軍艦で江戸に行くと言われ、困り果ててひとまずハリスを下田に上陸させたのである。
8月27日の『日本滞在記』によると、ハリスは「そちらの態度は、私を迎えることを忌避するものと解されるし、又条約を破る底意を有するものとも受け取られる」と詰め寄ったという。このアメリカのビジネスマン、なかなかの脅し上手でもある。これが効いたのか幕府側は「決してそのようなことはないと、しきりに抗弁した」と日記に綴っている。
8月31日には、「私自身の退去をアメリカ政府に請う書面を、私に書いてくれないかという。これは断った」と。これを読んで私は思わず苦笑したものである。いかにも日本的発想である。
日本人独自の共通した性格でもある。
あるイギリスの船会社に勤めるイギリス人のA氏が、私に話してくれたことがある。A氏は日本人のある大手商社マンと商談している最中、いろいろな行き違いがあって、大手商社マンの方が激昂したのだという。そして最後に、A氏に向かって「日本支社長に会わせろ」といって、怒鳴ったのだという。
こうしたケースはしばしばある。商売がうまくいかなくなったりして感情的になると、つい「社長に会わせろ」などと言ってしまう。それを言うのは、きまって力の強い方である。大企業の平社員が、中小企業の課長あたりに向かって言う。脅しをかけるわけだ。しかし考えてみれば妙な話である。喧嘩している当の相手に向かって、社長に会うための仲介の労をとってくれ、と頼んでいるのである。いかにも非論理的である。
そのイギリス人の一介の平社員は、日本の大手商社マンに向かって次のように言ったそうである。「私は社長の秘書ではない。社長に会いたければ自分で社長とコンタクトをとればいい」と。
日本人だとなかなかこうはいかない。むしろ、腹を立てながらそれを抑え、社長にとりつぐ方が一般的である。唯々諾々と相手の脅しに乗るのも情けないが、こうした要求を相手にぶつけるのも、随分相手を見くびった話である。見くびっているというより、相手に甘えていると言った方がいいかも知れない。
 これは以前、私がつとめていた大学の教授をされていた土居健郎氏の言う、「甘えの構造」の一例になるかもしれない。当面の敵対している相手を味方のように扱うのである。臆面もなく、ハリスにハリス自身の利益と逆のことを書いてもらおうというのである。これは、相手の力を正当に認め、恐れを感じていない所から起きてくる。
9月4日、ハリスが乗ってきた軍艦サン・ジャシント号が出港した。その直前、午後2時半に、この帝国における「最初の領事旗」をハリスは掲揚した。「厳粛な反省 -変化の前兆- 疑いもなく新しい時代がはじまる」とハリスは日記に記している。(以下次号に続く)