黒船の交渉学 ~ペリーのポートフォリオ戦略~

大統領親書を手交する

ペリーは、不測の事態に備え、測量隊に応接所の前の小湾の測量を命じた。早速、実測され、そこから射程以内まで艦隊を進めることができることが報告された。
奉行は、ペリーが本船の停泊している所からボードで来ることを想定していた。これに対し、それは提督としての威厳にふさわしくないから、応接所の近くまで艦隊を移動させたいと申し入れた。

 アメリカ側は、臨戦体制下にある艦内の任務を遂行するために必要な人数だけ残し、それ以外の約300名が提督と行動を共にしたのである。士官は正装し、水兵と陸戦隊は青と白の制服を着た。提督が上陸すると、先に上陸していた兵と士官達は二列に整列し、提督がその間を通り過ぎると、彼らは提督の後について応接所に向かって行進を開始した。威風堂々、脅しの演出力である。かくして、応接所で大統領の親書が手交される。

親書の要旨は次のようであった。

「アメリカ合衆国大統領ミラード・フィルモアより日本皇帝陛下(将軍)に呈す。
私がペリー提督を日本に遣わした目的は、合衆国と日本との友好、相互通商を結ぶことを提案するためである。

合衆国の憲法及び法律は、他国民の宗教的または政治的事項に干渉することを禁じている。私は、陛下の国土の平安を乱すあらゆる行動を控えるよう、ペリー提督に申し付けている。アメリカ合衆国は豊かな国である。日本も豊かである。両国がお互いに交易して共に利益を受けることは私の切望するところである。

貴政府が、中国とオランダ以外との外国貿易を禁じていることを私は知っている。しかし世界の状態が変化し、数多くの新政府が形成された。したがって、時勢に応じて新法を定めるのが賢明だと思う。

外国貿易を禁ずる古い法律を廃棄することに危惧を感じるならば、実験として5年または10年の年数を限るという方法もある。

近年、カリフォルニアから中国に行く米国の船舶が多くなっている。また、日本沿岸で捕鯨する場合も非常に多い。荒天の際に、帰国の沿岸で難破するアメリカ船舶も増えている。我が不幸な人民を親切に遇し、財産の保護をよろしくお願いしたい。

また、願わくは、我が汽船やその他の船舶が日本に停船して石炭、食糧及び水の供給を受けることを許されたい。私の強力な艦隊をもってペリー提督を派遣する唯一の目的は次の通りである。すなわち友好、通商、石炭と食糧との供給及び我が難破民の保護である。」

親書の手交後、ペリーはまもなく艦隊を率いて琉球そして広東へと立ち去ってゆき、翌年の4月か5月に、また日本に寄航すると述べた。

そして「4隻で戻ってくるのか」との日本側の問いに対して、「全艦を率いて帰ってくるつもりだ。これら4隻は艦隊の一部分に過ぎないから、次回は多分もっと多数の船を率いてくるだろう」と、最後にだめ押しの脅しをかけている。
1854年2月、ペリーは、軍艦7隻を率いて日本を再び訪れた。

そこでペリーは、浦賀は不完全で不便であるとし、もっと江戸に近い所に停泊する場所を求めたのである。幕府側は、黒船の砲弾の脅威を極力避けようとしたのだが、結局ペリーの強引さに押し切られてしまう。奉行香山栄左衛門は当時、艦隊が停泊していた場所の真向かいの横浜村に近い地点を提案した。この妥協も、ペリーがさらに艦隊を江戸に移すという威嚇行為に移るのではないかと、おっかなびっくりでの提案であった。

3月8日、日本全権委員会と協議に入ることになった。日本側の首席委員は渡辺華山を自殺に追い込んだ鳥居(とりい)耀蔵(ようぞう)の弟、林(はやし)韑(あきら)大学頭であった。西洋を憎み、蘭学者を徹底して追いつめた、タカ派のオピニオン・リーダー、儒学者の総元締である。

「林大学頭が明らかに、首席委員であった。なぜならば、重要事項はことごとく彼にはかられた。威厳がある中で沈着な表情をしていた」と『ペリー遠征記』に書かれている。

 言うなれば、今の東京大学の学長以上の社会的地位の高い人物を、幕府としては代表に選んだのである。ペリーは前回同様、部署を離れられる全員に正装させて音楽隊と共に参列させた。日本人のように儀式好きな人民には、このような演出が重要であり、その精神的影響を心得ていたからである。

 さらに彼はかなり脅しを利かせるのである。もし、我意が通らなければ、我に戦の用意あり、近海に50隻の軍艦がおり、さらにカリフォルニアに50隻の軍艦が待機している。したがって、開戦になれば総勢100隻の艦隊が20日以内に到着すると脅しをかける。また、戦争になったら君達は負ける。その時のために、白旗を2本持ち帰るようにと揺さぶりをかけたりしている。

 幕府側は、開国の時期を何とか延ばす考えであったがペリーの態度が強硬で、武力行使も辞さない勢いに圧倒されてしまう。幕府はこれに応戦する意思はなく、林韑らに戦端を開くことにならぬよう細心の注意を払わせる。武力衝突にはならざるを得ない所まで来て、幕府はこの衝突を避けるために、自ら屈したのである。通商以外は全面的にペリーの要求を認め屈したのである。「高の知れた夷狄のごとき、我が鋭利なる日本刀をもってすれば一人で百人は切倒せる。」と豪語していた林韑などは、横浜でペリーを初めて見ると、当初の勢いはどこへやら、その堂々たる押し出しに圧倒され、「アメリカ人の言うことは最も千万。向こうの言う通りにしなかったら、えらいことになりましょう。東照大権現家康公が生まれ変わっておいでになられても、アメリカ人の言う通りにする他はござりますまい」と、うろたえているありさまである。

現在でも、日米交渉に見られるパターンの原型がここにある。日本は絶対に譲らないと明言する。ある程度頑張る。しかし、土壇場に来て一気に崩れてしまうのである。カタストロフィーが起こるのである。米国に良く見る譲歩の標準型と比べると図7のようになる。

勢いに乗ったペリーは、長崎を拒否し、下田と箱館の二港を開くことを希望した。幕府はこれにも応じた。そして、1854年3月31日(安政元年3月3日)、日米和親条約が調印された。これが世に言う神奈川条約である。吉田松陰が金子重輔とともに下田に停泊中のペリーの旗艦に乗り移り、アメリカに同行しようとして断られたのは4月25日の夜であった。

 ペリーの脅しの外交が効いて、フィルモア大統領の親書に盛られた内容に沿って日本は開国した。しかし、これも開国の序の小口で、さらに次のハリスが開国の仕上げをすべく来日するのである。

 なお、ペリーとの交渉に際しての首席委員は前述の林大学頭であったが、この背後の幕府の総指揮をとったのは阿部伊勢守正弘であった。彼は備後福山藩主で寺社奉行をつとめていたが、年齢わずか25歳で老中となり、ペリー来日の1853年に、34歳の若さで徳川幕府の老中首座(今の首相)の職についたのである。

 正弘は、当初他の大名や幕府の高官達と同じく鎖国支持派であった。が、徐々に世界の大勢を見ながらそれに順応し、最後には鎖国の幕引き役として、ペリーとの交渉にあたるのである。彼の評価についてはすこぶる有能な宰相として見る見方と、一国の将としては無能な識見のない人物であったとする見方との双方がある。が、通常は、確かに欧米の宰相のように、果断な決断力や、先の先まで見通すヴィジョンを持った指揮者という点では物足りないかも知れないが、少なくとも他の幕末のリーダー達に比べれば一頭抜きんでた名宰相であったという評価に落ち着くようである(小西四郎『日本の歴史19‘開国と攘夷’』中央公論社)

 いわゆる日本の伝統的タイプのリーダーであったようである。結果的に見れば、彼の立ちまわりは、それなりに交渉者として成功している。確かに譲歩の幅は大きかったが、少なくとも日本の植民地化という最悪の事態は避け得たのである。

 正弘が老中首座となった時、開国を迫る外部の圧力もさることながら、幕府内部も永年の矛盾が深刻化し、「内部交渉」という面でも大変であった。たとえば、その1人が幕政に関して大いに発言力があった徳川斉昭(水戸中納言斉昭)である。水戸藩主は御三家の1人であり、昔から天下の副将軍といわれたくらいに重きをなす藩であった。その斉昭は、攘夷論者のまさに巨頭であった。その理論的支柱になったのが、藤田幽谷、東湖の親子や会沢正志斎といった水戸学の理論家たちである。

その斉昭が、しばしば正弘の政策にくちばしをはさむのである。

弘化3年(1846)、ビッドルに率いられて米艦が浦賀に現れた時も、斉昭は正弘に「夷狄の要求はすべて拒否せよ」と迫っている。これに対し、正弘の側は、「今、異国船打ち払い令を発しても必勝を期することはできぬ。日本の小舟では巨大な外国軍艦を攻撃しようがない。何よりも敵艦が江戸近海でわが廻船を襲ったら、海路を絶たれて、江戸は食糧欠乏に陥るでしょう」と答えたと言う。癇癪持ちの幕府の大物斉昭に、これだけ物が言えるとは正弘もなかなかの人物である。阿部正弘は、「水越(水野忠邦)などとちがい、憤激などは致さざる性にて、申さば瓢(ひょうたん)にて鯰を押え候と申す風の人」と徳川斉昭は評しているが、この正弘の「柔よく剛を制す」の術中に斉昭自身はまってしまうのである。

阿部正弘自身は、どこでも評判がよく、彼のことを悪く言う人は周囲にあまりいなかったという。そのソフトな交渉スタイルが、幕末のようなすさんだ状況の中にあって、かえって功を奏したのだろう。

モラトリアム的解決案

ただ、その阿部正弘にとってみても、ペリーの外渉スタイルは手に余ったようである。強硬というのも、斉昭のように精神主義に傾くのではなく、すこぶる理詰めで、とりわけ武力を背景にする異邦人であった。

何よりも正弘は、ペリー艦隊の威容を誇るその姿を目のあたりにして、これは武力でことを構えるのは到底不可能だと悟ったようである。

 ペリーが一旦、日本を去った後、正弘は広く大名の衆知を集め、対策を協議した。意見は現在のアンケート調査のような形で集められ、大名の答申書がぞくぞく集まってきた。幕府が従来の独裁制、「トップ・ダウン」の決断方式から「ボトム・アップ」の決断方式に切り替えた象徴的な出来事である。幕府の弱体化が露呈したが、なりふりかまっているわけにはいかない。「喉もとすぎれば熱さを忘れる」の譬えどおり、一旦ペリーが帰国した後、主要な大名たちの意見は、黒船が姿を初めて現した時のパニック状態を忘れ、おそろしく威勢がよかった。相手のいない所では、俄然強くなる日本人の特性であろう。「ペリー討つべし」という意見が、過半数を占めた。もっともハト派的な一橋慶喜、松平慶永らも強固派に変わっていた。しかし、正弘の本音は、到底今のままでは勝目がない、しばらく向こうの言うままになって、その間に力を蓄え、力がついた時点で決戦に移ろうという妥協案である。この手の決断を一時のばしするモラトリアム的発想は、日本人の心性によくなじむ。

正弘は衆議を集めて、この方向に意見をまとめていった。

「根回し」によるリスク・シフト

しかし、ボトム・アップ方式は、それがコンセンサスを得るまでに 時間がかかる。翌年ペリーが現れた時、幕府側が公式にとった方式は、「ぶらかし策」といわれている、はなはだ頼りない引き伸ばし戦術である。ぬらりくらりと回答をごまかし、何とかペリーを退去させられないかという戦略なき交渉戦術である。が、相手のペリーは、典型的なタフ・ネゴシェーター(練達の交渉者)であった。

 例の林韑が、当初の勢いはどこへやら「アメリカ人の言うとおりにするほかはございますまい」と正弘に伝えた時、正弘の肚は決まっていた。が、平和裡に相手の条件を飲むということを周囲の者達に、すぐには明らかにしなかった。まず「根まわし」である。内部交渉である。

 根まわしの効果は、危険を集団に分散することによって、一人ではなかなか背負いきれない責任を耐えうる所にある。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」的な発想である。一種の危険移行(リスク・シフト)である。

 正弘は、まず斉昭の諒承をとりつける。ところが斉昭は、林韑などの「交渉代理人」を呼びつけ「交易許すまじ、戦争もやむなし」というかねてからの持論をぶつける。しかし、正弘の対応はここでもそつがない。ひっそり林大学などを呼び、交渉を平和的にまとめ上げるよう説き、日米和親条約を結ばせたのである。もちろん、斉昭らは譲歩の幅が大きいといって猛烈に反対した。しかし、林韑の次の言葉に反論するものはいなかったという。

「今もし拒絶して開戦になれば、日本の沿岸は兵備もなく手もなく粉砕されるでしょう。敗戦してからの講和条件が、この程度の幅ですみましょうか」

 第二次大戦での無条件降伏という苦い経験に照らし合わせてみて、幕末の日本の交渉者達の決断は、さほど判断を誤っていなかったと見てよいだろう。

 神奈川条約の締結された年に、日本はイギリス、ロシアとも和親条約を結んだ。

 日米和親条約成立により、安政3年7月21日(1856年8月21日)、米国総領事ハリスが米艦サン・ジャンシント号で下田に入港する。彼の目的は通商条約の締結であった。内外の政務に疲れた正弘は、同年10月17日、堀田備中守正睦にその職を譲った。

 そして安政4年6月17日正弘は39歳の若さで世を去った。

 ハリスはその死を惜しみ「彼は欧米列強の力を充分に理解し、日本が鎖国政策を棄てなければならない時期に来ていたこと、鎖国政策を進めれば、戦争の悲惨にまきこまれることを知っていた」と評している。

 「勝海舟も島津斉彬の推薦で抜擢され、正弘が力を入れた長崎の幕府海軍伝習所に赴いたのであった。この時、正弘は勝家の食客になっていた蘭学者の杉純道を招き、蘭書を通して、世界知識を学んでいる。

そして、正弘はこの年、安政2年、九段下に洋学所を設けた。杉田成卿、箕作阮甫などの洋学者が教授に招かれ、その開講は同4年8月からで、蕃所調所と改称した」と、阿部正弘の子孫阿部正道氏は語っている。

 これを見ても当期の幕府のリーダー達は、情報活動に相当力を入れていたことが分かる。また、的確な情報を持っていたことを知るのである。これが幕末における日本の危機を救ったのである。

 「爵禄、百金を惜しんで敵の情を知らざる者は不仁の至りなり」(『孫子』用間篇)