歴史と日常に学ぶ 脅しの対応法(第3回)

1相手の脅しの性格を知る。

次に大切な事は相手のタイプ、脅しの性格を理解することである。孫子が述べた一節に「彼を知り己を知れば百戦して殆うからず」という言葉があるが、まず彼を知ることが大切である。相手の性格は大きく次の4つに分類できる。
 ①ゲーム的脅し
 ②攻撃的脅し
 ③破滅的脅し
 ④策略的脅し

①のゲーム的脅しに分類されるタイプは「その人の取り分は脅された量に反比例する」というリンガー説を支持している。これは本人の人格とは別にビジネスをゲームと割り切り脅しをかけてくるケースである。机上で考えた脅しをシミュレーションとして戦略的に仕掛けてくるケースである。
②の攻撃的脅しは、もともと相手が好戦的であり、怒りにまかせて恫喝してくる性格のものである。直情型で単調だが勢いが強い脅しである。論理矛盾が目立つ場合が多いが、気が弱い人はこの性格の脅しにすぐ屈してしまうことが多い。
③の破滅的脅しはもっとも危険なタイプともいえる。自らの利害を超えて感情にまかせて突っ走るタイプで、別名「死なば諸共政策」「ブリンクマンシップ(brinkmanship)」「抱き合い心中的恫喝」と呼ばれる。窮鼠猫を噛むとはこの事である。相手をこの状態まで追い詰めると非常に危険である。
④の策略的脅しは知能犯であり、冷静に相手を分析し弱みに焦点を合わせて徹底的に脅しをかけてくる。卑怯な手、卑劣な手のオンパレードで、ブレーンが陰にいる場合もある。

このように脅しにもそれぞれのタイプによって特徴がある。対応方法もタイプに応じて、変化させることが必要である。この4つの脅しに対しては次のような対応が考えられる。
①のタイプに対応する場合、当方は脅しに屈しなければよい。もともと相手はブラフとして脅しているだけであり、実際には行動力はないことが多く、達観して取り合わなければ問題はない。
②のタイプは感情中心のため、まずは感情を静める必要がある。ひたすら傾聴に徹し、相手の感情をくみ、沈静化を図ることが必要である。その後腹を割って話すことで打開の道を模索する方法が望ましい。
③のタイプは最も危険である。冷静な話し合いがもはや困難で、交渉断絶、脅しが現実となるような危険領域に達した状態である。このタイプを封じ込めるには権謀術数を駆使することが必要となってくる。相手自身が自然に崩壊する方向にトラップを仕掛けることが必要であり、徹底的に策略を練る必要がある。ここでは覇道も必要となる。
④のタイプは知能犯であり徹底的に姑息な手段をうってくる。この場合は相手を上回る戦略を構築して対抗する必要がある。姑息な戦術には、上位の戦略で対抗し、相手に状況で勝つ必要がある。③と④は悪質なもので自らの力で難しい場合は警察に相談したほうがよいだろう。また相手にする必要のない局面であれば、無視するのが常道である。
以上のように脅しに対する対応は相手のタイプ、脅しの性格によって変化させていくべきものである。自らの頭で考え、その状況に応じてうまく対応していくことが問われるのである。次に、3つの代表的な対応の方向性について述べてみることにする。

「疾風に勁草を知る」とは『後漢書』に書かれている言葉である。「普段沢山生えている草も、強い風が吹いた時こそ強い草かそうでないかがはっきりとわかる」という意味である。自分より強い相手から脅される、不利な状況で威圧される、そんな状況はだれでも少なからずあるだろう。しかし、厳しい状況の時こそ前述の言葉のように自らの真価が問われる時なのである。

司馬遷の『史記』の中に小国の有能な参謀の逸話がある。紀元前280年頃秦は趙を攻め、石城を攻略、さらに趙軍2万人を殺した。圧倒的に秦優勢の中、秦王は趙王に使者を遣わし、実質上趙王を臣下とするための会談を申し込んだ。趙王は秦を恐れて秦王を訪ねることをためらったが、家臣の廉頗、藺相如が進言をする。「王が行かなければ趙が弱くて臆病であることを天下に示すことになりますぞ」。趙王はそれを聞き2人と共にしぶしぶ秦王との会談に向かった。一行を国境まで送った廉頗は、趙王に別れを告げた。「しっかり注意をしてください。道中の日数は会談を終えて帰るまで30日とかかりません。30日たってお戻りにならなければ、太子を奉じて秦の野望をくじきたいと思います。」

かくして趙王は秦王と会談した。秦王は言った。「かねてから趙王は音楽好きだと聞いているが、ひとつ琴でもひいてもらいたいものだ」。趙王は琴をひいた。すると秦の記録官が進み出て「某年某月某日、秦王、趙王と会談し、趙王に琴をひかせる」と記録した。すると今度は藺相如が進み出て言った。「秦王におかれましては、秦の音楽にご堪能と伺っております。折角の機会ですから盆缻を伴奏に喉をおきかせいただいて、ともに楽しみたいのです」。秦王はかっとした様子で断った。相如は盆缻を捧げて近づき、ひざまずいて秦王に請うた。秦王はそれでも応じない。相如は言う。「王までたった5歩の近さですぞ。ご承諾なければお命を頂戴つかまつる」。その瞬間秦王の左右の家臣が相如に斬りかかろうとした。しかし相如のすさまじい一喝でひるんで後ろへさがった。

やむなく秦王は1回だけ盆缻を打った。そこで相如は趙の記録官を呼び寄せ、「某年某月某日、秦王、趙王のために盆缻を打つ」と記録させた。この会談で秦王はついに趙を屈服させることができなかった。相如の命がけの態度が秦王の脅しから趙を救ったのである。

重大な局面で、相手の脅しに対して簡単に譲歩したのでは、やがては自らの破壊を招く事になる。この逸話は、脅しに対して時には毅然と対応し、安易に屈しない姿勢を示すことが重要であることを示したものである。

明治維新の立役者である西郷隆盛は次のような言葉を残している。「正道を踏み国を以て斃るるの精神無くば、外国交渉は全かるべからず。彼の強大に萎縮し、円滑を主として、曲げて彼の意に順従する時は、軽侮を招き、好親却って破れ、終に彼の制を受けに至らん」「断じて行えば鬼神もこれを避ける」。命がけで事に当たる気迫をもってすれば脅しに屈せずとも道は開けるのである。まさに脅しに対しては時として西郷隆盛の姿勢を持つことが重要である。

西郷隆盛といえば勝海舟とともに行った江戸城無血開城の交渉は有名な話である。当時戊辰戦争が激しさを増し、1868年には倒幕軍の江戸城総攻撃も本格化していた。時の将軍徳川慶喜は、上野寛永寺にこもり、朝廷に対して恭順の意を示すとともに徳川家の救済と家名の存続を嘆願。幕府側の陸軍総裁勝海舟が、倒幕軍参謀西郷隆盛に降伏を申し入れ、1868年3月13、14日に両者の会談がなされた。その結果、江戸城総攻撃の前日に和平交渉が成立し、無事、江戸城の無血開城が決定した。そのおかげで江戸は戦禍を免れたというものである。倒幕軍の江戸城総攻撃という脅しに対して、決死の交渉で江戸を戦禍から守ったのである。勝海舟は交渉決裂に備えて①江戸の焦土作戦(江戸を自ら焼き払い、倒幕軍を足止め、攪乱する。)②江戸住民の疎開③徳川慶喜のロンドン亡命などを準備していたといわれる。この交渉でキーマンとなったのが山岡鉄舟である。勝海舟の使者として官軍の本拠に赴き、西郷隆盛と会見。海舟との会談の仲立ちを実現している。山岡は命がけで、西郷に会見し、西郷を動かした。双方の利害関係を超越した日本全体を思う山岡の志の強さと自ら命をかけた姿勢に西郷が至情の涙を堪えざらしめたという。また勝海舟は後日山岡鉄舟に対して次のように述べている。

「山岡がおれの問いにたいし、『もはや、幕府の薩長のとそんな差別はない。挙国一致だ、四海一天だ、天業回古の時期は今だ』というたが当時、おれは彼の言を聞き、これはなみたいていのものではないとほとほと感心したよ。西郷もここまでは考えていなかったようだ。否、当時こんな思想をもっていたものは他にいなかったよ」

この勝海舟の言葉からも山岡鉄舟が非常に高い視点で物を見、行動していたことがわかる。山岡の歌に次のようなものがある。

晴れてよし曇りてもよし富士の山 もとの姿は変らざりけり

まさにこの歌は山岡の精神を言い尽くしている。いかなる難局にあってもぶれることなく、自らの志や信念に従い、全体の利益のために私心を捨て命がけで行動することが道を開く王道といえるのである。

 
 
脅しへの対応戦略2 覇道編

「兵とは詭道なり」とは孫子の一節に出てくる有名な言葉である。分かりやすくいえば戦争とは平時と違う状況のことを言い、相手の意表をつくことが肝要であるという意味である。交渉においても脅される状況というのは平時とは違う状況であるとも言える。

清濁合わせのみの対応が求められる局面があるのが実際の交渉である。孫子ではさらにこう続く。「それゆえ強くとも弱く見せ、勇敢でも臆病を装い、近づいていても遠くに見せかけ、遠方にあっても近くに見せ、利をもとめているときは誘い出し、混乱しているときは奪い取り、相手が充実しているときは防備し、強いときはこれを避け、怒り猛っているときはそれをかき乱し、謙虚なときはそれを驕りたかぶらせ、安楽である時は疲労させ、親しみあっている場合はそれを分裂させて、相手の無備を攻め、敵の不意をつくのである」
孫子の兵法とはまったく思想を異にする論語で有名な孔子も、故国である魯が危機に堕ちた際、弟子の子貢の権謀術数によって、母国の危機を回避している。当時斉の大夫の田常が、魯を攻撃すべく軍を動かした。小国魯としては国の存続が危ぶまれる危機的状況である。孔子は母国魯を救済するため子貢を任命した。
早速子貢は斉の田常のもとにおもむいた。そこでは魯の国の現状、その弱さについて説き城壁の薄さ、堀の浅さ、君主の愚かさ、徳のなさ、重臣の無能さなどを説明した。またそれとは逆に呉の城壁の厚さ、堀の深さ、武器のよさ、兵の強さ、将の有能さを説き、強国呉攻略の必要性を説いた。弱国魯を攻めるより強国呉を攻めることを進める子貢に不信をいだく田常に対し、子貢は次のように説いている。「悩みの種が国内にある時は強国を攻めそれが国外にある時は弱国を攻めよと言われます。貴国は国内に悩みを抱えています。特に重臣の一部があなたに反発しています。このまま魯を攻め勝利を収めれば、あなたを嫌う軍事担当の重臣の力はますます増強するでしょう。また主君も驕り高ぶり己を見失うかもしれません。そうなればあなたは、上は主君と反目し、下は重臣と争うこととなり、あなたの足元はまことに心もとないものとなります。逆に呉を攻めてあえて敗れた場合はどうでしょうか。人民は多く死に、重臣はその力を失います。あなたは有力な臣下の抵抗を受けることもなくなり、人民の非を受けることもなくなります。敗北によって主君を孤立させれば、その後あなた一人で斉を牛耳ることができるのです。」ここでは子貢は斉の利益ではなく、田常自身の利益にフォーカスして、話を進めたのである。この提案に乗った田常は、魯攻略を中止し、呉への攻撃にシフトする。その口実を作るため、子貢は今度は呉へ使者として出向くのである。そして小国越との戦いを進める呉王に対して、越との戦いは後回しにして小国魯を助け、大国斉を攻めることを進めるのである。小国越との戦を避け、越を存続させて徳を示し、小国魯を救って王者の名声を広め、暴虐な斉を討伐すれば晋国にも威圧を与え、念願の覇業が成し遂げられると説くのである。呉王はまんまとこの子貢の話に乗るのである。

そして、子貢は次に越に渡るのである。越王に対し強国呉が越に攻め込むことを告げ、危機が迫っていることを伝えるとともに、それをやめさせるには呉に味方すること以外道はないことを説くのである。しかし越王は、以前呉と戦い敗れて、屈辱的な想いを味わった恨みがあり、素直に呉に味方することは考えにくい。そのため子貢はここでも策略を講ずる。越王にまずは生き残りのため、一旦は呉の味方になり、呉の矛先を越からそらすことが肝要であることを説く。そして、呉が斉に負ければ越としては好都合、もし勝っても勢いあまって晋へ触手を伸ばすであろうからその際には晋へ事前に手をまわし、呉を迎えうってもらう。そして呉が弱ったところを越が一気に攻め、これを滅ぼしてしまおうという案を提案した。奪いたければ与え、打ち破りたければ助けるという戦略を提案したのである。越王は大いに喜んでこの話に乗るのである。
その後結果として呉は越が味方になったことを喜び、斉を攻め、大勝利を収める。そして勢いあまって晋へ攻め込み、晋が応戦、結果晋が呉を撃破するのである。これを聞き越王は呉を攻め、王宮を取り囲み呉王を殺したのであった。子貢の策略が当時の国の勢力図を一気に塗り替えたのである。
このように孔子の魯を救ってほしいという願いを受けた子貢は見事にその仕事を成し遂げたのである。権謀術数を駆使し、小国魯を大国斉の脅しから見事に守ったのである。小さな存在が生き残るため、事をなすためには、脅しに負けない強靭な交渉力は必須である。時には権謀術数を駆使することも求められるのである。
日本の明治維新の立役者として有名な存在として、前述の西郷隆盛と並び称される人物が坂本竜馬である。土佐藩から脱藩した一浪人が薩長連合を成し遂げ、大政奉還をプロデュースするという一大事業を成立させた。坂本竜馬も強靭な交渉力の持ち主であり、権謀術数にも長けていた人物である。坂本竜馬が大事業を成就させる直前に危機的状況に陥った事件がいろは丸事件である。
坂本竜馬が作った浪人結社亀山社中は、薩摩と長州の間で商社的役割を果たしていたが、薩長同盟のあとはその存在意義が薄くなり、のちに土佐藩に吸収され海援隊と名乗ることになる。その海援隊発足早々1867年4月にいろは丸事件が起こっている。瀬戸内海で2隻の蒸気帆船が衝突。海援隊が運航していたいろは丸が沈没する。相手は徳川幕府御三家の紀州藩が運行する明光丸だった。いろは丸は海援隊が大洲藩から1航海500両で借り入れていた船舶で、この時は大坂で売る武器を積み込んで長崎を出港していた。

幸いいろは丸の乗組員は明光丸に乗り移ったため全員無事だったが、積み荷もろともいろは丸は沈没してしまった。このことにより海援隊は発足して即窮地に陥ったのである。紀州藩から賠償金がとれなければ、海援隊は存続が危ぶまれる状況である。
一方相手は徳川御三家の紀州藩である。仮に非が相手方にあったとしてもとても海援隊が対抗できる相手ではない。海援隊は交渉に勝つためにさまざまな手を使っている。航海日誌を作り変えたり、海援隊の非を指摘された際は暴力的な対応で紀州藩士を恫喝したりするなど必死の対応をした。当時の海援隊士は、亀山の白袴と呼ばれ、ならず者の集まりとも世間ではみなされており、怒るとなにをするかわからない集団という風潮もあった。そこをうまく使い紀州藩士を脅していった。また土佐藩の後藤象二郎を表に出すなどさまざまな政治的駆け引きの末、奇跡的に勝利し8万3000両余の賠償金を勝ち取ったのである。当時海援隊は次のような都々逸も長崎の町で流行らせたといわれる。「船を沈めたその償いは、金を取らずに国を取る」まさに坂本龍馬の世論を巻き込んだ紀州藩に対する脅しである。竜馬は長崎へ向けて出発する5月8日三吉慎蔵宛に次のような遺言状をしたためている。
「万一の御報知が届きましたときは、愚妻の儀、よろしくお頼み申します」。竜馬自身も死を覚悟していた。まさに命がけの交渉であった。とにかく海援隊を存続させるには賠償金を取らねばならない。どんな手を使ってでも勝たなければならなかったのである。

その後竜馬は船中八策を作り、大政奉還という大事業を後藤象二郎と力を合わせ成し遂げていくのである。大いなる偉業の前に、決死の交渉があったのである。
世間は生きているとは勝海舟の言葉である。世の中は生き物であり、交渉も生き物である。よって常に変化し、教科書的な対応で済まされるものでもない。常に清濁併せのみの姿勢が求められるものなのである。小さい存在が大きな存在の中で勝ち残っていく、そして偉業を達成していく。時には権謀術数も必要不可欠なのである。戦国最強と言われた武田軍団は孫子の風林火山をその旗印にしていたことは有名である。行動するときは疾風のごとく駆け抜ける。静止する時は林のように静まりかえる。攻撃するときは燎原の火のごとく襲いかかる。防衛するときは山のごとく微動だにしない。隠れるときは黒雲が天をさえぎるように跡をくらまし現われる時は雷鳴のように襲いかかる。まさに状況に応じた戦略が求められるのである。孫子にはまた「始めは処女の如く後には脱兎のごとく」いう言葉もある。まさに正と奇を組み合わせ相手の隙を突く戦略が必要なのである。
相手の脅しに対して、「常山の蛇」と言われるように頭を打てばしっぽが向かってくる。しっぽを打てば頭が襲ってくる。中間を打つと頭としっぽが向かってくるというような体制を取ることができれば、自らの身をしっかりと脅しから守ることができるのである。

(以下次号に続く)