運動の法則:交渉の研究に関して

物体に力を加えると一方向に動き出し、それを止めるには反対方向に働く力が必要である。それを運動の法則と呼び、一般に慣性の法則という。この慣性の法則が働くのは物質だけではないと思う。感情にもそれは働くようである。好きな人を想う恋心は強く人を引きつける感情である。しかし、失恋した時にその感情が直ぐに消えてしまうことはないのが普通である。怒りの炎はなかなか消えないし、消すには時間がかかる。反対に働く力の強さが負の感情を引き起こす、と考える。感情は尾を引くというが、これは一種の慣性の法則である、といえるのではないか。
学問にもそのような慣性の法則が働くといえるように思えるのである。1つの学問に取り組み、その考え方・論理に習熟すると、何かを見たり考えたりして意見を展開する場合、それは習熟した学問観に沿ったものになる。例えば、経済学をかなり真剣に勉強した人は、どのような問題に対しても経済学の論理に基づいて物を見て考えを展開をするようである。政治学でも法学でも、また心理学でもそれはいえるようである。
新しく創りあげ展開しようとする論理の体系も、それまでどのような研究をしてきたかによって作られる内容の枠組みが形成される。交渉学についての文献を見て、その体系を考察しているとそのようなことを考えてしまう。
交渉研究のメッカ的存在として、ハーバード大ロースクール内に拠点を持つ機関であるProgram On Negotiation(通称PON)は1983年に設立されたものであるが、そこでは様々な研究者が様々な観点から交渉の研究をしている。外交や政治に関する紛争解決、企業の吸収・合併や買収といった取引、地域開発に関する利害関係者の考えの調整、紛争解決のための合意形成、等々の実践的問題解決や理論研究である。その成果は著書やジャーナル、あるいは研究ノートという形で公表・公刊されている。そのなかで研究者グループによる成果は次のようにグループ分けされる。
1.R.フィッシャー先生のグループ、他にW.ユーリー、B.パットン、等
著作には有名な“Getting to Yes”(ハーバード流交渉術)や“Getting Past No”(ハーバード流Noと言わせない交渉術)がある。
2.J.セベニウス先生のグループ、他にD.ラックス、J.ハマンド、等。元々はH.レイファ先生が指導者であった。
著作には“The Art and Science of Negotiation”、“The Manager as Negotiator”、“Negotiation Analysis”、“3D Negotiation”(ハーバード流3D交渉術)、等がある。
3.L.サスカインド先生のグループ
著作には“Breaking the Impasse”(コンセンサス・ビルディング入門)、他がある。
4.M.ベイザーマン先生のグループ
著作には“Negotiating Rationally”(交渉の認知心理学)、他がある。

他にPONの運営委員会の代表者であるR.ムヌーキン先生のグループも1つのグループとして分けることが出来るのではないかと考える。交渉の研究がこのような形に分けられて展開・発展し体系化されるのは、それぞれの研究者がそれまでに学んできた研究領域に依拠していると思われる。筆者はそのような想像をしている。つまり、交渉の研究と理論の展開にも慣性の法則が働いている、と言えそうなのである。
1は政治学や外交の研究に、2はゲーム論や意思決定論の研究から、3は都市研究から都市設計の合意を求めて、4は認知心理学に基づき記述的意思決定理論を、という具合に交渉研究の出発点にしているように筆者には思われるのである。
それら個々の研究成果を基盤にしてPONに集結し、交渉学を作ることを目的にそれぞれが研究をし、PONとしてもまとまっていくことを図っている。その結果がこのような図式になったのであろう。新たな知の体系を総合的に作り上げていく、生みの苦しみを表明しているとも考えられる。それぞれのグループの代表的な著作を挙げているが、どれも読む価値のあるものばかりである。
慣性の法則は交渉学という体系を作り上げるのにも働いていた、といえる。また、現在でもそれは働いているのではないだろうか。そんな風に考えるのである。