藤田忠の交渉行動講座

「調整」とは何か

揉め事解決の第三の道

人はだれも一人では生きていけない存在である。いや、生きていけるにしても、その能力を十分に発揮できるとは限らない。たとえば無人島でただ一人で暮らすとなれば、そこがどれほど豊かな土地であったとしても、おおよそ文化的な生活は望むべくもない。つまり、人間の文化、あるいは文明というものは、人間が集団として暮らすことによって社会を形成し、分業と協業を行なうことによって初めて成立するわけである。
ところが逆に、複数の人間が集まれば、この大小、多寡を問わず、なんらかの紛争が起きてしまうのも、人間の常であろう。紛争という語が不穏当ならば、意見の相違または対立、あるいは利害関係の発生といってもよい。
そこで人間は古くから、地球上の他のどの生物よりも発達した言語能力をつかい、紛争の解決を図る努力をしてきた。これが「交渉」と呼ばれるものである。
つまり交渉という行為は、双方が譲歩して歩み寄り、利害や意見の対立をなくすための話し合いである。したがって、交渉には本質的に闘争的な性格がともなう。これが失敗したために暴力的手段に至ってしまった例は、古今東西無数にある。歴史に残る戦争の大多数には、その要求が妥当であったか否かを別にして、開戦に先立ってかなりの時間をかけた交渉であった。それでも、暴力は避けられなかったのである。
もっと身近な例に目を向けてみよう。現在、最も日常的に行われている交渉の一つは、夫婦間の話し合いだろう。子供の教育、近所づき合い、家計の問題から、晩のおかずや浮気に至るまで、内容は実にさまざまだが、これがしばしば決裂して暴力行為に及ぶことがある。このことは、すでにみなさんよくご承知のとおりである。本書を手にされるだれでもが、これらのことをうとましく思いながらも、それを避けて通ることはできないのである。これが人間の生活というものである。
暴力行為は、当事者間のみで行われる話し合いには、常について回る危険である。もちろん、当事者以外に問題を解決する能力のある者がいれば、それはまた別である。しかし、いない場合には、たとえそれが暴力的な結末を得るとしても当事者同士の交渉に頼るほかはない。当然そこに、利害を離れた有能な第三者が中間に介在すれば、最終的な破局を回避し得る確率ははるかに高くなる。かつて、イスラエルとエジプトが歴史的な和解を果たしたとき、それを仲介したアメリカの存在が大きな意味を持っていたことは、だれもが認めるところだろう。

この、交渉に介在した第三者が話し合いをまとめるために行なう作業を、一般に「調整」と呼ぶのである。

「交渉」と「調整」はどこがどう違うのか

前節の最後で述べたとおり、調整とは、基本的には利害を離れた第三者が、交渉を円満に、あるいは双方が納得できる範囲で解決するために行う作業である。もちろん、調整とは対立した二者の間に入ることだけを意味しない。そのほかにもさまざまなケースが考えられる。しかし、ほとんどすべての調整作業の基本となるのは、交渉を円滑にし、対立を緩和または消滅させるための、バッファーとしての作業と考えていいだろう。
話し合いによって対立をなくす努力をするわけであるから、当然ながら調整という作業は、現象面で交渉をともなう。いや、形を見る限り、ほとんどの作業は交渉そのものと言ってよいだろう。ただきちんとことわっておくが、その本質において、交渉と調整は全く別のものである。

では交渉と調整とは、いったいどう違うのだろうか。

まず交渉は、互いに自己の、あるいは自己の帰属する集団(組織)の利益の確保ないしは防衛のために行なわれる直接的な話し合いであり、まずもって戦闘的性格を有する。必然的に、そこで行なわれる話し合いは、多かれ少なかれ一方が得ればもう一方が失う、勝負の性質を持つものになる。すなわち、どちらがより多く自己の主張を通し得たか、またはどちらがより多くの譲歩を勝ち取ったかなどによって、優勝劣敗が決する。

一方の調整は、多くの場合、対立する当事者または集団により、大きな上位集団ないしは組織の利益を守り、安定と調和を確保し、維持するために行われるものである。現実に対立する両者が同一の集団に属する場合のみならず、本来別の集団であっても、巨視的な目的や利害の共通性から、観念的により大きなまとまりを考え、第三者が調整者として介入する場合もある。
調整は、紛争によってより大きな集団の利益が損なわれる場合に、紛争そのものを問題として行なわれるものなのである。
したがって、調整は紛争そのものを起こさないために、利害や対立の発生を未然に防ぐためにも行なわれるべきものでもある。その点で、利害や対立が発生し、紛争が起こって初めて開始される交渉とは全く異なるものである。
調整は、現実に組織としてであれ、観念としてであれ、より大きな集団の目的や利益のために、協調し安定を図るために行なわれるのであるから、その結果に勝敗はありえない。いや、あってはならない。これは、対立する利害から離れているために、調整者が結果において何も具体的な利益を得ないなどといった現象面の話ではない。どちらかの一方的譲歩によって、問題が解決したように見えても、感情的なシコリが残り、新たな紛争の種を生むようならば、その調整は失敗である。調整において重要なのは、問題が解決されたかどうかではなく、紛争が解消されたか否か、なのであるから。
調整という作業の目的が安定や協調である以上、それが形の上で交渉によって紛争当事者に譲歩を求めるものであったとしても、またその場において、交渉のテクニックを駆使するにしても、闘争の性格を帯びることを徹底して排除しなければならないだろう。
調整は、何かを得るために行なうものではない。何かを失わないためにこそ行なうものである。別の表現を用いれば、交渉という作業がその本質において攻撃的(アグレッシブ)であるのに対し、調整は本質的に防衛的(ディフェンシブ)であると言えるだろう。交渉は、話し合いとはいえ、戦闘的な駆け引きを用い、双方の譲歩と妥協によって問題の解決を図るものである。それに対して調整は、双方の理解と納得によって問題を解消し、紛争そのものを消滅させ、協調と安定を回復することを目指す。
言い方を変えれば、当事者同士の間でややもすれば戦闘的になり過ぎ、決裂したり、後々まで感情的対立を残しそうになる交渉の間に、より大きな観点を持って介入し、それを穏やかなものにし、最終的に和解させる。あるいはその手助けをするのが調整の基本的な形である。

結論的にいえば、交渉は紛争の原因となる諸問題の解決を目的に行なわれる話し合いであり、調整は紛争自体の発生を防止し、これが発生した場合には、可能な限り速やかに消滅させるために行なわれる話し合いである。

問題解決イコール調整の成功、ではない

調整とは、紛争そのものを解消し、協調と安定の回復を目指すものである。したがって、問題が解決されればそれでよいという性質のものではない。問題の解決は調整の一面に過ぎない。
読者のみなさんにもご経験がおありだろうが、交渉の席で「理屈としては確かにそのとおりだ。しかし、なんとなく納得できない」といった思いにとらわれることがしばしばある。
交渉において、理屈で言い負かされれば敗北である。納得ができようができなかろうが、その問題についてはこちら側が大幅に、あるいは全面的に譲歩し、妥協することで決着してしまう。本来利害が対立している者同士の話し合いなのだから、どちらの利益も損なわない解決策を見出せない限り、どちらかが譲るほかないのは、交渉の当事者は双方とも最初から心得ている。そこでは、正当と双方に認められ、なおかつ自分の側に有利な理論を展開したものが勝利を得るのは、当然のことと認められている。交渉の持つゲームの、と言って悪ければ勝負の性格を端的に表わす事例といえるかも知れない。
異なった集団、あるいは組織の間で行なわれる交渉ならば、「納得できない」気分が最終的に一方に残ってしまっても、あまり問題はない。もしもこれによって感情的なシコリが残り、事後の運営がうまくいかなかったとしても、それは譲歩した側が、交渉に敗れた側が負うべき問題になる。
その点では調整といえども紛争の解決に当たるわけであり、利害の対立があれば、双方に譲歩を求めるのだから、交渉と変わりないではないか、と読者は思われるだろう。双方にちょうど同じ割合で譲歩させることなど、実際にはほとんど不可能だし、一方にある程度の不満が残ってしまうのは、やむを得ないようにも考えられる。しかし、このような考えは誤りである。調整の場合には、一方の側にでも「納得できない」気分が残るようでは、決して成功とはいえないのだ。
ところで往々にして、われわれは問題の解決をイコール調整の成功と考えてしまう。現実には、調整の現場では、表面上穏やかに収まったように見えながら、一方の側が(はなはだしい場合には双方、あるいは調整されるすべての当事者が)不満を残していることが実に多い。

このようなケースでは、「納得できない」気持ちを持ちつつも、理論的には正当であるため、表だっては逆らうことはできない。そこで、別の形でその不満を表すことになる。いわば難癖をつけるような形で、「江戸の敵を長崎で」式の紛争を、新たに起こすわけだ。
これを見て、「いったんは了解しておきながら、こんな姑息な手で憤懣を表明するとは、未練なやつだ。俺の顔に泥を塗った」と考えるようなら、初めから調整をしようなどと思わないほうがいいのだ。別の形にしろ、新たな調整を必要とするような紛争の種を残した点においては、前回の調整が失敗だったと考えなければいけない。
調整とは、協調を取り戻すことを目的に行われるのであるから、表面上支障なく連行されても、新たな紛争や不協和音の元となるような感情的なシコリが残るようでは失敗なのである。
これは極めて重要な問題である。調整に当っては、理論的に問題を解決するのみならず、感情的な対立や不満をも解消してやらなければならないことは、はっきり銘記しておかなくてはならない。

「妥協」と「納得」は絶対に違う

ではなぜ感情的な部分で不満が残ってしまうのだろうか。人は、たとえ同じ割合で譲歩を引き出したとしても、隣の芝生は青い、のたとえのとおり、自分のほうが多くを譲ったような印象を持ちやすい。また、同じだけ譲ったとわかっていても、紛争当事者が本来自分に譲るべき点はないとでも考えていれば、結果として不満は残ってしまう。
こうしたときに、当事者同士が互いに同じ割合の譲歩をしながら満足できないのは、相手の譲歩がどういう意味を持つのか、十分知っていないためだといえる。相手にとって、その譲歩がどの程度の重みを持つのかが理解できないから、自分が得たものの大きさもわからない。それで、自分の側が譲る部分のみが大きく見えてしまう。
この状況では、よしんば問題が解決して紛争が収まったとしても、そこで得られた結論は、自分の(あるいは双方の)犠牲によって、辛うじてできあがった妥協の産物との印象しか持ち得ない。なぜ自分が(あるいは双方が)譲るべきなのかがわかっていても、自分が譲ることによって相手に与えるものや、相手が譲ることによって自分が得るものの価値がわかっていなければ、満足感は得られない。

相手の(あるいはお互いの)立場や置かれた環境を十分理解せずに行なわれた譲歩は、ほとんど例外なく妥協によるものになる。当然それによって出た妥協の産物となり、たとえそれが客観的に正当なものであったとしても、感情的不満が残りやすい。その解決策の持つ意味を理解できないから、感情面での充足感が得られないのである。
別の言い方をしてみよう。いかに検討を重ねて理論的に妥当な結論を導き出したとしても、紛争の当事者たちが全体を正しく理解していなければ、それは妥当だとは感じられない。したがってその結論は拙速の妥協策の印象を与えてしまい、「いまは思い浮かばないが、よりよい解決策があるはずだ」といったような不満を残してしまうのである。解決を急ぐあまり、双方が譲歩を求めることに急であり過ぎると、全体の説明が不十分となり、理解が得られないことになる。仮に交渉はまとまっても満足感が得られず、感情的なシコリが残ってしまう。
ここで一つ興味深い事実を挙げてみよう。実際の交渉においてしばしば起こることであり、読者も経験があることと思うが、お互いに少なからぬ譲歩をしながらも、なおかつ双方が満足できる結論を得られる場合がある。これは一般的に英語で「Win-Win交渉」と呼ばれるもので、双方がギブ・アンド・テイクの精神に則って、譲った分ではなく得た分を重くみて、満足するような交渉である。双方がお互いの立場を十分に理解し、得失を検討し、納得した上で譲歩が行われれば、見返りとして行われた相手の譲歩の価値―それを取りも直さず、自分の得たものになる―を重くみて満足できるのである。
全体を明確に認識し、相手の立場を理解し、自分と相手の失うものと得るものの価値を正しく知り、直接の紛争原因を離れて和解によって得られるより高次な利益を正確に把握した上での譲歩は、納得できるものになるのである。納得していれば、多くの犠牲を強いられたとしても、不満は残らない。逆にいえば、交渉において不満が残りやすいのは、相手の立場や事情を正確に理解しきれず、全体を正しく認識できないためである。もちろん、交渉は、勝負の性格を持つものだから、当然の駆け引きとして、お互い自分の不利になるような、いわば「御家の事情」は説明しない。そのため、全体像が正しく把握できす、その結果として満足感が得られないケースも多くなる。また、勝負である以上、敗北によって不満を残すこともある。

このWin-Win交渉は、お互いが全体を正しく理解し、妥協ではなく納得によって譲歩したときに現れるものなのである。

著者プロフィール

藤田忠

理事長 藤田 忠

1931年 青森県生まれ。一橋大学及び一橋大学大学院に学ぶ。

ライシャワー博士が所長を務められたハーバード燕京研究所に研究員として学ぶ。その際に交渉学に接し、衝撃を受ける。

以後、憂国の念をもって、日本での交渉学研究に心血を注ぐ。1983年に国際基督教大学で『交渉行動』の講座を開設。これが日本でハーバード流交渉学を紹介した嚆矢となり、以後常に交渉学の最前線で研究、教鞭をとり現在に至る。

1954年-58年
一橋大学商学部在学
1958年-64年
一橋大学大学院商学研究科在学
1964年-68年
神奈川大学経済学部助教授
1968年-97年
国際基督教大学教養学部教授
1973年-74年
ハーバード大学燕京研究所(米国)客員研究員
ハーバード大学ではじめて交渉学が教えられた1973年に在学。帰国後、ハーバード流交渉術を日本にはじめて紹介し、以後、日本の交渉学の第一人者となる。
1997年-2002年
東京国際大学商学部教授
1988年-92年
日本経営数学協会 会長
1988年-2009年
日本交渉学会 会長 (現 名誉会長)
1989年-現在
ライシャワー大学院大学設立準備委員会代表
2003年-現在
特定非営利活動法人 日本交渉学会
(現 特定非営利活動法人 日本交渉協会)理事長

著書

心理戦に負けない極意』(PHP研究所) 安藤雅旺共著
ビジネス交渉術―成功を導く7つの原理』PHP研究所 著者:マイケル・ワトキンス 監訳
交渉力研究Ⅰ交渉力研究Ⅱ』プレジデント社
交渉の原理・原則―成功させたいあなたのための (原理・原則シリーズ)』総合法令
交渉学教科書―今を生きる術』文眞堂 R.J.レビスキー/D.M.サンダーズ/J.W.ミントン 監訳
交渉ハンドブック―理論・実践・教養』東洋経済新報社 日本交渉学会 監修
脅しの理論―すばやく決断し、たくみに人を動かす (1980年) (カッパ・ビジネス)』光文社
幕末の交渉学 (1981年)』プレジデント社 など多数

書名
心理戦に負けない極意
出版社
PHP研究所
著者
藤田 忠 (著), 安藤 雅旺 (著)
書名
脅しの理論―すばやく決断し、たくみに人を動かす
出版社
光文社
著者
藤田 忠 (著)
書名
交渉ハンドブック―理論・実践・教養
出版社
東洋経済新報社
著者
藤田 忠 (監修), 日本交渉学会 (編集)
書名
「燮」の交渉力―必ず成功する101の原理
出版社
PHP研究所
著者
藤田 忠 (著)
書名
交渉力研究〈1〉
出版社
プレジデント社
著者
藤田 忠 (著)
書名
交渉力研究〈2〉
出版社
プレジデント社
著者
藤田 忠 (著)
書名
交渉力の時代
出版社
PHP研究所
著者
藤田 忠 (著)
書名
破壊の理論―問題の核心をつかみ、大胆に動く
出版社
光文社
著者
藤田 忠 (著)