人の連帯における意味

「人」の説文学的解釈


人

長い棒と短い棒が互いに支え合っている

図の漢字「人」をじっと見てください。

どんなことに気がつきますか。

これは長い棒と短い棒がたがいに支えあっている姿を示している。

漢字の成り立ちをこのように説明する学問を説文学という。長い棒と短い棒がたがいにつっぱって直立してたのでは人になりません。

たがいにゆずりあい、支えあって人になるのである。これは新渡戸稲造博士の説明である。

それにしても、漢字はなかなかうまく出来ている。人間はたがいに協力しなければ何もできないことを暗示しているのです。

「人」のキリスト教的解釈

キリスト教では次のように言っている。

旧約聖書の最初は『創世記』です。ここに人の創造が語られています。

「……人は土のちりから、神のかたちにかたどって作られ、命の息吹きを吹きこまれて生まれた。アダム(人の意味)はこうして創造され、エデンの園の中におかれた。 また、主なる神は言われた、『人がひとりでいるのは、よくない。彼のためにふさわしい助け手をつくろう』 しかし、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣のなかには、人にふさわしい助け手がみつからなかった。 そこで主なる神は、人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、ひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。そのとき人は言った。 『これこそ、ついにわたしの骨と骨、わたしの肉と肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう』 それで、人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。

(『創世記』第2章)

『人がひとりでいるのは、よくない』人には助け合う者が必要であるが、それは鳥や獣ではなく、他の人間でなくてはならない。男と同じく神にかたどって作られたもう一人の人格としての女でなくてはならない。男と女との霊肉をかねそなえた人格的な結びつきが人類社会の出発点である」

(川瀬謙一郎稿『キリスト教における結婚・家庭観の伝統』)

先の説文学的な「人」の解釈で、原初的には例えば長い棒が男であり、短い棒が女と解される。このような人格的な結びつきを前提としているのが人間である。

さらにもう少し川瀬教授の先の論文を読んでみよう。

「旧約の民イスラエルの始祖アブラハムについて伝承は次のように語っている。 族長アブラハムは神の命にしたがって、一族のものや家畜をひきいて、すみなれたカルデアのウルの都をあとにして旅の途に上った。この時に際して、神はつぎのように約束した。

『わたしはあなたと契約をむすぶ。あなたは多くの国民の父となるであろう』

(『創世記』第17章)

この約束は部族を代表する族長アブラハムに対して語られた。旧約の世界は族長の世界である……イスラエルの父祖は、羊を飼いながら牧草地を求めて移動をつづける遊牧の民・族の民である。かれらはまた、オアシスに定着生活をいとなむ先住の他民族の間にしばしの宿りを求める寄留の民でもあった。族長にとって一族の安全こそ何をおいても守るべき重大事であったから、アブラハムの物語に見られるように、この目的のためには巧妙な交渉の策略や、時には武力の行使も辞さないことが必要だったのである。」(傍線は著者による)

人間関係は基本的には対立関係にある。しかし、対立したままでは前述のように人にならない。連帯を求めざるを得ない。対立から連帯を求める活動には戦争があり、交渉があり、説得がある。

戦争は相手の殺傷をも含んで連帯を求める活動である。交渉は相手を傷つける物理的力の行使は含まない。しかし、交渉は脅しを含む心理的力と論理的力を利用して連帯を求める活動である。説得は論理的力によって連帯を求めている。交渉にはもちろん説得的側面も入る。ビジネスにおいても、家庭においても、今日交渉が非常に多くなっている。新聞を見て、「交渉」という文字を見ない日はないと言っても過言ではない。現代は「交渉の時代」なのである。

交渉によって人は人となるのである。

以上