渡辺崋山の『八勿の訓』に学ぶ

日本の諺や格言で交渉に関するものは、寡聞にして、崋山以外のものを聞いたことがない。

ここに示す崋山の『八勿の訓』は交渉に関する教訓としては貴重なものである。

天保八(一八三七)年、崋山四十五歳の時である。田原領内に飢饉が発生した。天保の飢饉である。

そこで、用人真木重郎兵衛定前が藩御用金用達の目的で大坂表におもむき、滞在していた。彼は大坂商人との交渉を行うのである。これに対し、崋山は手紙を送って、真木に交渉の心構えをさとしたのである。

八つの心得を説いたもので通常『八勿の訓』という。そして、将来を考え、基本を忘れなければ、「あたらずとも遠からず」といっている。

『八勿の訓』①  面後の情ニ常を忘スル勿【ナカ】レ

大意 直接面談している時、その時の感情に流され平常心を忘れるようなことがあってはならない。

交渉は対立的人間関係の中にある。したがって、とかく、安定感を失いがちである。まして、武士が商人と交渉をするのである。借金を するのだから、立場としては武士の側が弱い。したがって、商人の振舞いを不遜と取りがちになる。そうなると平常心を失ってくる。物が見えなくなる。交渉に おいて最も危険な状態になるのである。

『八勿の訓』②   眼前の繰廻シに百年の計を忘スル勿レ

大意 現在、只今のやり繰りに、百年の大計を忘れてはならない。

今日のお金の調達のために、危ない貸し金業者に走る。その結果、破局にぶつかる。 交渉は短期と長期のバランスをとることが肝要である。当面のこの交渉だけ適当にやればよい、というものではない。

今、この条件で妥結する。これは既成事実となる。既成事実は交渉において力をもっている。

「前と同様にということは強い。自分の後任者はこれで苦労しないだろうか」。

この発想が百年の計である。長期的視点から現在をみる。忙しい昨今、百年の計は忘れがちである。

崋山の発案で、天保六年十一月、報民倉が建設された。これは飢饉に対処する備蓄の倉庫である。このため、天保の飢饉では藩民に一人の餓死者も出なかった。

崋山の蔵書には飢饉対策に関する書物がかなりある。彼は最悪の事態に対処する姿勢を強く持っていた。

彼には科学の分析的思考と芸術の総合的思考が家老職の実践家として統合されていた。

眼前だけを見るな。百年をも見よとは分析と総合の統一である。

交渉は常に分析あるいは理詰めではない。総合性が不可欠である。

『八勿の訓』③   前面の功を期シテ後面の費を忘スル勿レ

大意 前の収益を取ろうとして、後の費用がかかることを忘れるな。

売上げをあげるためには費用がかかる。これを忘れて売上げだけをあげようとする。極端な話ではあるが、自動車のセールスで売上げをのばすのには値引いて売ればよい。しかし、元値を切って値引いたのでは崋山のいう費を忘れたことになる。

また、功をあげるには費がかかるのである。費用の英語はコストである。コストには犠牲の意味がある。ある功をたてるには犠牲が必要なのである。単なるお恵みでは、ろくなものが手に入らない。

キリスト教には、犠牲=コストの観念がある。

ここの個条は現代風に読めば次のようになる。前面の功を期するならば、後面の費を忘する勿れ。自分の交渉力アップを思うならば、自分にコストをかけなくてはならない。

自ら犠牲を払う。もちろん、いかに犠牲を払うかは別な重要な問題である。

『八勿の訓』④  大功ハ緩にあり機会ハ急にありといふ事を忘スル勿レ

大意 大きな功績はゆっくり積みあげてゆくものだが、チャンスは急にくる事を忘れるな。

徳川家康は偉大な創業者であり、経営者であった。彼は待ちの政治家であった。

「鳴くまで待とう時鳥【ホトトギス】」であった。

彼は幼にして織田信秀、それから今川義元の所に十数年人質となっている。桶狭間で義元が信長に敗死する。

ここで岡崎城に帰り、独立する。しかし、その後、信長に臣従する。信長は本能寺に倒れる。同格、あるいは彼以下であった羽柴秀吉に 臣従する。忍の一字である。秀吉が死ぬ。このチャンスを彼はつかんだ。関ヶ原の戦いで豊臣方を破る。豊臣を残存させておくのは危険と考え、強引に大坂冬・ 夏の陣をしかける。彼は胃がんの兆候を感じてもいた。チャンス到来とばかり、彼は突き進んだ。豊臣氏を亡ぼした一年後、彼も病死する。

これにより徳川は三百年続いたのである。まさに大功は緩である。

時にのぞんで、行動を起こさなければならない。観察者でなく、行動者のための教訓である。

『八勿の訓』⑤  面は冷ナルを欲し背ハ暖を欲スルト云ヲ忘スル勿レ

大意 表面は冷静でありたいが、心は暖かでありたいという事を忘れるな。

交渉者も利を求め冷静が冷酷になってはならない。冷たい人には人は寄りつかない。心のぬくもりが必要なのである。

日本史上、最大の交渉劇は南洲と海舟の江戸城明け渡しの交渉である。渋沢栄一は彼の『処世の三大道』の中で、勝伯(海舟)は気迫の人で、刺客が暗殺しようとしても近づけなかったといっている。この海舟は南洲との交渉決裂の場合の対策を三つたてて交渉にのぞんだ。

一 焦土戦術、

一 慶喜亡命策、

一 市民の生命財産の保全

最初のものはナポレオン侵攻に対するモスコーの焦土戦術を学び、これを江戸でやろうというのである。二番目は慶喜をイギリスに亡命 させる手はずをたてた。三番目はいざ戦争という時に市民を守るため、避難のできる用意をした房総の海岸にある船という船を借り上げ、市民が船で退去できる ようにした。これは実際には使用することはなかった。

しかし、この準備がなければ、交渉にあたって、あの迫力は出なかっただろうと海舟は述懐している。この中で、とくに海舟の市民に対する温かい配慮に着目したい。これが不朽の交渉劇をもたらした。

『八勿の訓』⑥  挙動を慎ミ其恒ヲ見ラルヽ勿レ

大意 行動をつつしんで、自分の本心を見破られないようにしろ。

ハーバード大のバーゼル教授は、著に次の意味のことをいっていた。手の内を全部示したのでは交渉にならない。嘘はよくないが、馬鹿正直もよくない。自分の交渉力をたかめるように手のうちを示してゆく。

これを彼は、戦略的表現(strategic representation)という。戦略的表現によって手の内あるいは本音を読まれないようにすべきである。

これによって、人は懐が深い印象を与える。何か深遠なものがあるような雰囲気を持っている。 これに対し、相手の背後を読もうとする。たとえば「氷山の理論」である。本来表面に出ているのは実体の十分の一にすぎない。海面下には人前にさらけ出した ら醜い実体がある。嫉妬心、自愛心、あるいは功名心がある。このような心理的側面のほかに、仕事の論理が隠されている。本音は何が欲しいのか、それを有利 に入手するために策略をめぐらしている。

手のうちを隠すほうとそれをあばくほうの戦いが交渉である。

『八勿の訓』⑦  人を欺かんとスル者ハ人ニ欺ムカル不欺ハ即不己といふ事を忘スル勿レ

大意 人をだまそうとする者は人にだまされる。いつわらないということは、自己をいつわらないことである事を忘れるな。

戦略的表現には嘘いつわりを申せといっているのではない。この戦略的表現によって、相手はかいかぶり、錯覚を持つかもしれない。しかし、それは戦略的表現の責任ではない。

現代交渉学においても欺や嘘はよしとしない。

交渉の基本は自分なのである。これは時間を越えて真理である。人を欺くことは結局、自分を欺くことである。

そうなったら、交渉にならない。

このように見てくると、彼には近代の自我が目覚めていたのではないかと思われる。彼が蘭学研究を始めたのは、天保四年、彼が四十一歳の時であった。この時、彼は近代的職務給の格高制を藩に布いている。この『八勿の訓』はそれから四年後になった。

自我の確立が交渉の出発点である。崋山はその近代的自我にふれていたのである。

『八勿の訓』⑧  基立テ物従ハ基ハ心の実といふ事を忘スル勿レ

大意 基本が立てば、あとはみなそれに従う。基本は誠実である事を忘れるな。

徳川時代の倫理の基本は「誠実」であった。

彼はそれが筋だと思うと、それに向かって誠実を尽した。藩財政あるいは藩民救済についても誠実をつくした。この彼が林述斎の四男鳥居耀蔵のために蛮社の獄につながれるのである。幕府の儒学の総帥の林家には洋学に対する嫉妬とあせりがあった。

これにより崋山は三河田原の池の原宅に蟄居となる。しかし、藩侯が奏者番に栄進しないのは崋山の罪科がわざわいしているなどの風聞がつたわる。彼は自刃に追い込まれる。四十九歳であった。墓標代わりに「不忠不孝渡辺登」と大書し、息子立には「餓死すとも二君に仕ふへからす」と遺書を残す。

崋山は封建制下の誠実に従って生きた。近代的自我に目覚めながらも、君主に対する誠実において自刃していった。

少なくとも、日本の交渉学は崋山のいう「実」の上に構築すべきと痛感する。

その正しさを彼の生涯が証明している。 これは単なる交渉術ではない。人間と人間のかかわりの基本を「実」におく交渉学は、歴史を越えて、発展して行くものと確信する。

以上